◆中村清蔵 昭和11年(1936)年刊の「財界物故傑物伝」より引用 氏は、万延元年十二月二十四日中村彌七の長男として江戸深川に生まれた。幼名を半次郎とよび、はやくも群童の異なるものあり、長じて益々智能秀れ、その前途を嘱望せられたる結果、明治九年入って叔父清右衛門の養子となり、同時に養父が隠居したので、直ちに家督を相続した。 爾来彼は深川正米市場に進出して、その機略を縦横に駆使し、漸次その商人としての風格は同業者の間で異彩を放ち、遂に斯(注:米)界の有力者として立てられ、その一挙一動は衆目の集まるところとなった。 次いで彼はその潜勢力と豊富な資力を善用して堅実なる實業方面に腕を伸べ倉庫業及び味噌製造の業務を開始した。 即ち、明治三十四年加藤金之助と中加貯蓄銀行を創立してその取締役会長となり、翌三十五年倉庫銀行を創立して頭取に就任し、金融の円滑を図って経営に手腕を発揮した。 日露戦争突発して皇軍の大挙満州の原野に進軍するや、自家の製造にかかる味噌の供給を図ったが、酷寒の満州にありては酒精さへも氷結する状態にて従来の如くでは氷結を免れず用に堪えなかった。茲に於いて彼は種々考案の結果、乾燥して粉末となし、これを糧秣廠におくり試験を経て良好なることの証明を得、大いに賞賛されて直ちに数萬樽の御用を拝命した。 これを満州に供給するや、故国を離れて異境にある皇軍の兵士より多大の感謝を得、その愛国行為のため勲五等を叙された。 彼は富豪の家に生まれ順調なる生活の下に人となり、その行路は順風に従い比較的坦々たるものであったが、然も極めてよく人情の機微に通じ、偏狭なる気風なく、大商人としての風格を備えていた。父祖の遺鉢を承けてこれを発展せしめ、「上清」の名を廣く他府県にまで知らしむるに至ったのも、彼の手腕と人格の然らしむるところであった。 彼はまた社会慈恤の心篤く、富豪としての義務を果たすの用意があった。明治四十二年七月海防資金一千圓を献納して、黄綬褒章を授けられたほか、各種事業に私財を投じたこと少なからず、度々その徳行を表彰せられた。 社員を愛撫してその安福を念ふこと深く、深川古市場に店員の住宅を設けて住まはしめた。 大正十四年十一月九日、病魔に犯され遂に逝去した。享年六十有六。 以上。
中村清蔵は、初代清蔵・三井・渋沢栄一ら5人の発起人で設立した深川廻米問屋組合の第3代総行司(理事長)を明治31〜42年まで務めた。そして、明治36(1903)年には私立深川女子技芸学校を設立した。同校は現在、私立中村中学校・高等学校として江東区清澄に所在する。