第157回 四方赤良について その2

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楽しまれてみてはいかがでしょうか。2025年11月から開催予定です。

今回は、『四方赤良について その2』をお届け致します。

今月は、四方赤良を筆名の一つとしていた太田南畝について、調べてみたら
興味深く感じたので、その生涯、特に後半生について、お話します。

太田南畝は、現代では文人、狂歌師としての印象が強く、町人のように思えるが、
出自は御家人であり、松平定信の「寛政の改革」によって、人生が変転した。

まず、「寛政の改革」により風紀に関する取り締まりが厳しくなり、版元の
蔦屋重三郎や同僚の山東京伝も処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、
周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。政治批判の狂歌「世の中に
蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目された
ことや、田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられた
という話がある。(これは、大河ドラマでも披露されました。)

寛政4年(1792年)、46歳の南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機に
これを受験し、甲科及第首席合格となる。及第の2年後の寛政8年(1796年)には、
御徒(おかち)から支配勘定に出世した。

「旧事諮問録」(岩波文庫)明治になってから徳川幕府諸役人の執務状況を
体験者との質疑応答を行い記録した文書。昌平坂学問所の章があり、その注釈に
太田南畝のことが出ている。

それによると、寛政11年(1799年)、「孝行奇特の者の取調御用」(孝義録)の
著作編集を命ぜられる。これを完成させたことにより、白銀十枚の賞が下賜された。
とある。

その後、享和元年(1801)には大坂銅座出役として大坂に赴く。この時に蜀山人と
号して、細々と狂歌を作る。その号の意味は、中国で銅山を「蜀山」といった
ことによる。さらに文化元年(1804)には長崎奉行所に赴任。と中級官吏の仕事に
邁進した。

また、文化4年(1807年)8月、隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を
偶然に目の当たりにし、自ら取材して証言集『夢の憂橋』(ゆめのうきはし)を
出版。
文化9年(1812年)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を
患って失職。自身の隠居を諦め働き続けた。
文政6年(1823年)、登城の道での転倒が元で死去。75歳。

このように、爛熟文化の田沼時代から「寛政の改革」へと社会情勢が替わった
ことに対して、生き方を見事に転換した見本に思える。と言うか、本人の意思に
かかわらず時代に押し流されたが、見事に復活した。

なにより凄いと思うのは、46歳にして「学問吟味登科済」と言う新設の試験、
今で言うところの国家公務員上級試験、中国の科挙にトップで合格したことで
ある。

それでも中級官吏止まりと言うのも、封建制度のジレンマのように思う。
ただ、著作活動は続けていたので、官吏になったのも、出世が目的ではなく
収入確保や保身のためだったのか。大阪や長崎まで行ったのは、好奇心と準備金に
惹かれてと思う。さらに、75歳まで勤めを辞めなかったのは、本人はどう考えて
居たのだろう。

太田南畝について調べて居たら、後半生の生き方が興味深かった。
後半生は、たぶん大河ドラマでは触れられないと思うので、ここに紹介しました。

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