日本味噌の歴史

浮世絵に刻まれた、屋号「かねじょう」

ある日、社長が偶然見つけた葛飾北斎の一枚の浮世絵。
その中に「かねじょう」の屋号を発見。
まるで導かれたような、そんなご縁を感じました。
弊社の応接室で、訪れる皆さまをお迎えしています。

かねじょうみその生い立ち

明治18年米穀商「上総屋」中村清蔵は東京市深川区深川佃町5番地(旧)で味噌醸造を始める。
大正8年 12月組織を変更し、資本金700万円(半額払込)で日本味噌株式会社となる。
大正9年東京醸造株式会社を買収。
工場は深川佃町と平井に加えて本所表町と品川の4工場となり、月産50万貫と称され、全国味噌業界で群を抜く業績をあげる。
大正12年 9月関東大震災により、深川佃町と本所表町工場を焼失。
大打撃を受け、資本金87万5,000円に減資する。
昭和13年横浜味噌株式会社(昭和8年12月 田中覚造創立)と合併。
この間社長は岩崎清七、中村米吉と替わり、昭和12年6月 田中覚造となる。
昭和36年横浜神奈川区三枚町に土地を求め、新しい発酵技術を取り入れた全行程機械化の近代工場の建設に着手する。
昭和38年 11月田中覚造死去により、田中恒二郎が社長に就任する。
昭和39年 7月新工場完成。品川・平井・横浜の旧工場を廃止し、新工場の稼動に入る。
その後食品衛生優秀施設として、幾度となく表彰を受ける。
昭和43年厚生大臣より、同じく表彰を受ける。
昭和49年工場廃水処理施設完成する。
昭和54年味噌業界初の技能士検定試験にて、1級5名、2級4名の合格者を得る。
昭和55年原料サイロを自動化。コンテナーで港より直接入荷可能になる。
昭和56年中国使節団が工場見学のため来社。
昭和56年横浜市衛生優良施設に17年間連続指定される。
平成4年仕込みライン全自動化設備を導入。(自動製麹機、自動蒸米機、3点計量混合機等)
平成8年第39回全国味噌鑑評会 食糧庁長官賞 受賞。
平成9年第40回全国味噌鑑評会 全国味噌連合会会長賞 受賞。
平成11年 3月前社長 田中恒二郎の会長就任にともない、田中清孝が社長に就任。
8月首都圏から全国へ広域ネットによる配送システムを確立。
10月第42回全国味噌鑑評会 全国味噌連合会会長賞 受賞。
平成12年 3月第1回手づくり味噌教室を開催。
10月味噌充填の自動製函・封函ラインが完成。
平成13年 3月技能検定試験 1級2名 2級1名 合格。
8月Haccp対応のたれ工場が竣工稼動。
平成14年 3月製品品温管理の徹底のため、発酵熟成工程の製品冷蔵庫を増設。
11月第45回全国味噌鑑評会 全国味噌連合会会長賞 受賞。
平成15年 2月毎月最終土曜日 近隣との交流を深めるために工場直売を開始。
3月技能士検定試験 2級2名 合格。
11月第46回全国味噌鑑評会 全国味噌連合会会長賞 受賞。
岸野 洋(きしの よう)生産管理部長が「東京都優秀技能者(東京マイスター)知事賞」受賞。
現在、技能士1級所持者5名、2級所持者4名。
平成16年 3月「かねじょう江戸甘味噌」が東京都地域特産認証食品の指定を受ける。
11月第47回全国味噌鑑評会 全国味噌連合会会長賞 受賞。
平成17年 3月技能士検定試験 1級1名 2級1名 合格。
6月品質・衛生レベル向上のため、工場の完全密閉化を目的として工場改造工事を行う。
10月下水道整備に伴い、横浜市下水道に接続。
平成18年 3月手作り味噌教室参加者延べ3,000名を超える。
4月スローフードフェア2006(パシフィコ横浜)に出展。
9月従来の重油ボイラーを都市ガスボイラーに交換し、「平成18年度 経済産業省CO2排出削減量認証事業」に認定され、CO2削減活動に取組み始める。
11月第49回全国味噌鑑評会 名誉審査委員長賞 受賞。
平成19年 3月技能士検定試験 1級1名 合格。
手作り味噌教室参加者延べ4,000名を超える。
10月十二種雑穀味噌発売。
11月第50回 全国味噌鑑評会 中央味噌研究所理事長賞 受賞。
平成20年 3月手作り味噌教室参加者延べ5,000名を超える。
平成21年 3月技能士検定試験 1級1名 2級5名 合格。
平成22年 11月第53回 全国味噌鑑評会 審査委員長賞 受賞。
平成23年 3月技能士検定試験 2級 5名 合格。
11月第54回 全国味噌鑑評会 中央味噌研究所理事長賞 受賞。
平成24年 5月みそソムリエ認定協会フォローアップ講座 会場提供。
11月第55回 全国味噌鑑評会 中央味噌研究所理事長賞 受賞。
12月NPO Haccp実践研究会 Haccp認証(味噌製造)取得。
平成25年 5月みそソムリエ認定協会フォローアップ講座 会場提供。
平成27年 3月技能士検定試験 1級 4名 2級 1名 合格。
現在 1級12名、2級7名。
4代目社長 田中覚造
4代目社長 田中覚造

創業者 中村清蔵について

日本味噌株式会社の創業者・中村清蔵は、万延元年(1860年)、中村彌七の長男として江戸・深川の米問屋に生まれました。
幼名は半次郎。
幼いころから聡明で、周囲の人々に将来を嘱望される存在でした。

明治9年、叔父・清右衛門の養子となり家督を継ぐと、若くして深川の米市場に進出。
商才を発揮し、やがて「上清(じょうせい)」の名で広く知られる有力商人へと成長し、その実力と人柄はやがて業界内でも一目置かれる存在となっていきました。

明治18年に東京市深川区深川佃町で「かねじょうみそ」の名で味噌醸造を始めます。
実業家としての活動は多岐にわたり、倉庫業や銀行設立などにも関わりました。

明治31~42年まで、初代清蔵・三井・渋沢栄一ら5人の発起人が設立した「深川廻米問屋組合」の第3代総行司(理事長)を務め、この時代の東京における米流通の要として、商業界に大きな足跡を残しています。

教育分野では明治36年に「私立深川女子技芸学校(現・中村中学校・高等学校)」を設立。
地域社会への貢献にも熱心で、深川区議や東京府議を歴任しました。

日露戦争中には、寒冷地でも品質を保てるよう工夫された粉末味噌を開発。
皇軍への大量供給を実現し、その功績により勲五等を叙されています。

清蔵は常に人とのつながりを大切にし、社員の暮らしにも心を配る人物でした。
社員のために住まいを用意するなど、温かい経営姿勢を持ち続けました。
また、社会福祉や公共事業にも私財を投じ、明治42年には海防資金の献納により、黄綬褒章を受章しています。

順風満帆な道を歩みながらも、奢ることなく、人情に通じた大商人としての風格と、社会への献身的な姿勢を併せ持った中村清蔵。
先代から受け継いだ家業を発展させ「上清」の名を他県にまで広めたのは、まさに清蔵の卓越した手腕と誠実な人柄によるものでした。

その生涯を通じて、日本の商業と地域社会に大きな足跡を残した中村清蔵は、大正14年11月9日、66歳で逝去しました。

[参考文献:昭和11年(1936)年刊の「財界物故傑物伝」]