メールマガジン No91~100
★第91回 江戸時代の塩の成分について その3 ★
週末の外出自粛要請が出され、2回目の週末が過ぎました。
横浜でも、見たこともない程、閑散とした街中がテレビ等で報道されていました。
今日は、近所の小中学校で かなり規模を縮小した入学式が行われています。
入学式・始業式後は、また長い休校期間に入り、更に我慢の日々が続きます。
ウィルス対策を万全にして、長期戦に備えたいと思います。
今回は、『江戸時代の塩の成分について その3』をお届け致します。
今月で、江戸時代の塩の成分については、私なりの結論を出します。
製塩方法の変遷を調べると、「近世日本の塩」廣山堯道・編著によると、
入浜塩業が出現した時期は、近世初期の慶長・元和期(1596~1623年)
その出現場所は、播磨東部と考えられている。播磨東部の製塩技術を当初から
活用して、開発された塩田が赤穂の塩田である。と記されています。
それにより、江戸初期より中期にかけて、入浜塩業が瀬戸内海で普及し、その
製法で製造された塩が、明治に至るまで、全国で広く使用されていたようです。
明治時代の塩の等級は、1等から5等まであり、含有するNaClの純度によって、
多いものから1等と決められています。5級70~75%、4級75~80%、3級80~85%、
2級85~90%、1級90~95%となっています。
『大日本塩業全書』の第1編(15)赤穂塩務局本局之部(赤穂)3.「従来に於
ける塩の販売地」には、東京・神奈川へは、「差塩」が、関西地方では、
「真塩」が、運ばれていたことがわかります。「近世日本の塩」でも同様の
記述があり、「赤穂塩は江戸時代を通して、差塩8割、真塩2割の割合で、
差塩の9割までは関東地方に移出され真塩の大半は大阪に回送された。」と
あります。
また、村上正祥「塩の組成と品質」(日本海水学会誌 第38巻 第4号1984)
(これもネット検索で出て来ます。)にも、分析データを上げて、「近世から
明治にかけて、塩の品質はほとんど変化していないと見てよい。」と複数回
書かれています。
さらに、明治35年当時の塩の組成を示したグラフでは、「差塩」のデータは、
60~80%のNaCl(%)に点在しています。また明治38年の塩専売施行に当た
っての純度による生産量の割合では、純度70~75%が55.5%を占めています。
以上のことから、江戸時代の江戸で使われていた塩は、「十州塩田」の差塩
(さししお)であり、それは、明治38年塩専売施行にあたりNaCl%による等級別
の5等塩にあたる塩分(NaCl)70~75%として、75%と設定しました。
なぜ、70%ではなく75%とした理由は、純度の低い塩は、積み置くことによって、
ニガリ分が流れて、純度が上がります。「塩の組成と品質」でも、「差塩」の
製造時と市販に分けてデータを記載しており、運搬途中で、ニガリが抜けて純度
が上がったと考えられるからです。
改めて言うことでもありませんが、塩の成分表示は、それ自体の含んでいる水分
までも、全体の重量に入れての表示です。
現在、私の手元にある「並塩」の品質規格書では、標準値としてNaCl(純度)
97.800%、水分 1.375%とあります。現在、イオン交換膜製法の分離技術の
高品質なことが、ご理解いただけると思います。
今回、色々と検索したことで、印象深かったのは、明治維新によって、ありと
あらゆることが一変したような印象を持っていましたが、塩田に関しては、
江戸も明治も同じ人力集約型の労働形態で、技術革新が起きるまでは、
変わらなかったことです。
★第92回 江戸の町は、八百八町なのか ★
本日5月2日は、広い範囲で晴れて既に30度以上の真夏日となっている所も
あるようです。
緊急事態宣言の期間を、6日以降も延長する意向を安倍首相が表明し、
外出自粛で家庭で過ごすことも多いかもしれません。
室内でも熱中症対策を心がけ、体調管理に注意されてお過ごし下さい。
今回は、『江戸の町は、八百八町なのか』をお届け致します。
江戸甘味噌の「江戸」とは、江戸時代と江戸の町の両方の意味を持って名付け
られました。歴史的なお話は今までに色々と申し上げて参りましたが、今回は、
地理的なお話を致します。
江戸の町は、どの範囲まで、なのでしょう。
かつての江戸と呼ばれる地域は、思いの外、狭い地域です。初期の頃は、
「本郷もかねやすまでが、江戸の内」と川柳にあるくらいの狭さでした。
本郷のかねやすという雑貨屋が、江戸と郊外との境目だという川柳です。
現在でも「かねやす」は、本郷3丁目の交差点の角にビルがあり、先ほどの
川柳を書いた看板が壁にかかっています。
ここで、個人的に疑問に思って、調べたのですがわからなかったので疑問のまま
書きますが、この川柳の意味は、そのまま解釈すると「本郷は、江戸とその他の
地域が、混在していて、かねやすの場所までが江戸で、それより江戸城より遠く
なる(方角的に北に行く)と江戸ではない。」ここまでは、ウィキペディアにも、
同様のことが書いてあり、それを定めたのが大岡越前だとも書いてあります。
なぜ、そのようなことになったのかは、以下のとおりです。
「『かねやす』を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)で、京都で
口中医をしていた。口中医というのは現代でいう歯医者である。
徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、口中医をしていた。
元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び
それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れた
ため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。
同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で
元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相であった。
大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。
本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した。」
ウィキペディア『かねやす』より
これに対して、江戸の南限というか、南の端が芝であり、そこにも前述のとおり
「兼康」があり、南の端だけではなく、北の端もかねやすである。
という「も」ではないかと説を紹介するHPも見つけました。こちらでは、芝の店が
本店だと書いてあり、池田弥三郎・著「日本橋私記」にあるとしています。
なんの資料もなく、勝手に憶測を申し上げると、芝が本店とした方が、筋が通り
やすいと思います。なぜなら、人名より店名を名付けたのなら、漢字の「兼康」と
名付けるのではないかという単純な意見です。どちらの店も現在もあれば、両方の
意見を聞くと言う手もあったのでしょうが、今では、できません。
今だと同じ会社の赤羽営業所と蒲田営業所が、東京支店の名前を争うようなもの
なのでしょうか。大岡越前が、この裁定をしたのが、享保15年(1730年)で、
それからでも「かねやす」は同じ場所で300年近く続いているというのも、
すごいことだと思います。
江戸時代も時代を下るに従って、江戸は広がって行きましたが、東京都公文書館
HPの「江戸の範囲」によると文政元年(1818年)12月に老中阿部正精から
「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が
示されたのです。
それでは、東・中川限り、西・神田上水限り、南・南品川町を含む目黒川辺、
北・荒川・石神井川下流限りとなっています。
現在の行政区画でいえば、1.千代田区、2.中央区、3.港区、4.新宿区、5.文京区、
6.台東区、7.墨田区、8.江東区、9.品川区の一部、10.目黒区の一部、11.渋谷区、
12.豊島区、13.北区の一部、14.板橋区の一部、15.練馬区の一部、16.荒川区
ということです。
東京の西側は、当時はあまり開けていなかったことが、わかります。
中野区も杉並区も世田谷区も入っていないからです。
そのHPには、江戸の町数は、延享年間(1744~1747)には、1,678町になった。
とも書いてあります。
私は、「ウソ八百」が、大江戸八百八町から来ていると今まで思っていました。
江戸の町も八百より少ないのに八百八町と誇張して言っていると思っていました。
倍以上もあったとは、そうすると、ウソ八百も大したウソの数ではないということ
ですね。
★第93回 大豆について ★
今回のコロナウィルス感染流行によって、注文がゼロになったお取引先もあり
ますが、若干増えたお取引先もあり、差し引き減となっております。
非常事態宣言に合わせて、弊社も、3月の手作り味噌教室の全日程と2月3月
4月の最終土曜日の工場直売については、お休みとさせていただきました。
それ以外は、通常の営業にて、製造を続けております。
なお、工場直売は、5月最終土曜日より、やり方を変えて再開しました。
今回は、『大豆について』をお届け致します。
さて、今回のメルマガを書くにあたって、過去のメルマガを振り返ったところ、
大豆については、幾つかの回で題材としておりましたが、まだお話する余地が
あると思い、今回よりお話します。過去にお話したことに多少かぶるかもしれ
ませんが、ご容赦下さい。
まず、栄養成分についてです。大豆と言えば、他の豆類に比べて、タンパク質が
豊富というイメージがあります。7訂などの栄養分析を見ると、確かにインゲン
豆やそら豆と言った他の豆類に比べて、確かにタンパク質は豊富です。
しかし、それよりも際立った違いがあることは、脂質を圧倒的に多く含むこと
です。
なぜ、豆類の中で脂質を多く含むようになったかと言えば、品種改良の結果です。
元々、脂質を比較的多く含んでいた大豆をその特徴を強調するように品種改良を
進めて行った結果、炭水化物が少なく、脂質とタンパク質が多くなりました。
タンパク質はともかく、糖類が脂肪に代わりやすいのは、通販番組で良くご覧に
なっていると思います。豆類は、育てやすい(後述)ので、豆類だけで様々な
栄養を摂取できれば、効率が良いのです。
大豆の問題点は、食べられるようになるのに加熱時間が掛かることです。
これは、脂質を多く含んでいることと関係があります。そら豆やインゲン豆は、
生だと数分、乾燥でもそんなに変わらない時間で、軟らかくなり、食べられる
ようになります。ちなみに、西部劇などで豆と肉の煮た料理(チリコンカン)に
使われている豆は、インゲン豆です。
一日中、牛を追って日が暮れそうになって、野営の場所を決めてから、食事の
支度をして、大豆を煮炊きに使ったら4~5時間掛かり、カウボーイ同士が撃ち
合いになるでしょう。
もう一つの問題点は、生で食べると含まれているトリプシンインヒビターによって
お腹を壊すことです。
簡単に大豆を食する方法は、炒ることです。しかし、節分で食べたことがあると
思いますが、一食分をこれで賄おうとは思わない歯ごたえです。
少量食べる分には、おいしいですが。
現在では、栄養成分と育てやすさ(後述)で、全世界で生産されている穀物
(厳密に言うと、大豆は豆類)の中では、2016年データでは、10億tの
トウモロコシ、小麦の7.3億t、米の4.7億t、大豆は3.3億t、続く大麦は
1.5億tとなっています。
大豆の世界生産量の内訳では、米国とブラジルが1億tでほぼ並んでいて、続いて
アルゼンチンが5千万tとなっています。しかし、この3国での大豆栽培の歴史は
浅く、比較的古くから栽培されていた米国でも太平洋戦争後であり、ブラジルに
至っては、1973年に米国から大豆輸出規制をされたので、田中角栄が発案して
本格的な生産が始まったと農水省のHPに書いてあります。
ただし、米国での大豆生産の目的は、搾油用でした。
少し話は逸れますが、7訂を見ても、国産と中国産大豆に比べて、米国産、
ブラジル産大豆は、脂質の含有量が多くなっています。
これも、当初の目的が関係したものと思います。
続いて、育てやすさですが、これは大豆など豆類が持つ根粒バクテリアによる
窒素固定作用が大きく影響しています。空気中の窒素を根に共生させている
バクテリアによって、吸収し成長に利用することで、やせた土地でも育成が可能
となっています。
タンパク質とその他の栄養素(炭水化物、脂質)との違いは、窒素を含んでいるか
いないかの違いです。植物は、窒素を葉や茎の成長に役立てています。
取り急ぎ、今月はここまでとさせていただきます。大豆については、まだお話し
することがありますが、次回以降にさせていただきます。
最後になりましたが、医療関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。
★第94回 大豆について その2 ★
九州南部を襲った豪雨で、被害に遭われた方々、残念ながらお亡くなりになら
れた方々に、心よりお見舞いとご冥福をお祈り申し上げます。
また、これ以上被害が拡大しませんよう、お祈り申し上げます。
今回は、『大豆について その2』をお届け致します。
先月に引き続き、大豆について話します。今まで、話していないことを話して
いるつもりですが、以前の話とかぶっていたら、ご容赦ください。
大豆の起源は、中国東北部だと言われています。そこに自生していた蔓豆
(つるまめ)が、長年かけて大豆になったとされています。
しかし、ヨーロッパでは、大航海時代に極東からもたらされましたが、栽培に
成功しなかったようです。
それは、ヨーロッパの土には大豆に合う根粒菌がいなくて、うまく育たなかった
とされています。このメルマガを書くにあたって、資料を捜したのですが見つか
りませんでした。
さらに、北米の土壌にも根粒菌はいなかったのですが、アメリカの博士が大豆の
種に根粒菌をまぶしてから、畑に蒔く方法を広めたので、北米で大豆の生産が
盛んになった。という話も文献が見つからずにお話しています。
話はまたズレますが、なぜ、根粒菌が限られた植物の根に共生するのかは、
わかっていないようです。これが、どんな植物の根にも共生できるようになった
ら、素晴らしいことだと思います。窒素肥料は要らなくなり、窒素肥料が川から
海に流れて赤潮の原因となることが防げる。
窒素肥料の原料となるアンモニアを製造するためのエネルギーや製造の際に発生
する二酸化炭素も無くなります。だからと言って、それで家畜の数が増えたら、
CO2は減りませんが。
世界の穀物事情を調べて、思いついたことがあります。それは、どの穀物が一番
面積当たりの収入が良いかということで、下の表にまとめました。穀物の国際
価格については、農水省HP「穀物等の国際価格の動向」より。単収については、
農水省「海外食糧需給レポート2016」平成29年5月よりの数字です。
品種 価格(ドル/t) 単収(t/ha) 面積収入(ドル/ha)
トウモロコシ 122.6 6.0 735.6
小麦 191.6 3.5 670.6
米 572.0 4.2 2,402.4
大豆 311.3 3.0 933.9
圧倒的に米の収入が多いですが、米を作るには、様々な条件を克服しないと
いけません。私がわかったのは、次の3つです。
まずは、水田を作るために大きな初期投資が必要となる。
場所の選定も、水はけが良いと困るし、悪くても難しい。
さらに、水が豊富にない(雨が降らない)と水田は出来ない。
最後に、育成収穫のために手間と設備投資が掛かる。
それと関係することですが、米は、ほとんどが自国消費であり、輸出している
のは、インド、タイ、ベトナムくらいです。豪州の米は、10年くらい前から
干ばつの影響で日本には入って来なくなりました。
このことからも、米は、世界での生産量はありますが、まだまだ国際的に流通
するような穀物には、なっていないと思います。なにより、トウモロコシ、
小麦、大豆は、シカゴ市場での取引ですが、米は上場されていません。
かつての米国の穀倉地帯(コーンベルト)では、毎年のローテーションとして、
小麦、トウモロコシ、大豆、休耕の4年周期で栽培を行い、連作障害も防いで
いたようです。現在では、肥料の進化によって、それほど厳密には行われて
いないようです。
経営面から考えたら、米以外の3種は同じ環境で栽培が可能なので、それほど
儲けに差が出るとは思えません。儲かる穀物をみんなが作るようになって、
需給関係で価格が下がることになるのが、経済原則です。
世界の穀物は、シカゴ市場の価格を基準にして取引がされています。
(米は、タイ国家貿易取引委員会公表です。)
シカゴ市場では、「ブッシェル」と言う単位で、穀物が取引されています。
これは、重さの単位ではなく、容積の単位です。1ブッシェルは、35.239リットル
とされていて、ざっくり一斗缶二本分です。もちろん、そこに入る穀物によって、
重量は違います。穀物ごとに1ブッシェルあたりの重量が違います。
大麦は、21.772kg、トウモロコシとライ麦は、25.401kg、小麦と大豆は、
27.215kgとなっています。同じ容積で重量が違うのは、粒径の大小と比重の違いです。
とりあえず、今月は、大豆プラス米の話になりました。来月は、大豆の話をします。
★第95回 大豆について その3 ★
先週1日の土曜日に、関東甲信地方の梅雨明けが発表されました。平年より
11日遅く、8月の梅雨明けは、この10年では初めてだそうです。
来週のお盆にかけては猛烈な暑さが予想されています。
体調管理には、くれぐれもお気をつけ下さい。
今回は、『大豆について その3』をお届け致します。
先月と少し話は変わりますが、大豆の遺伝子組み換えについては、独立行政
法人 農林水産消費安全技術センターのHPによると、現在輸入が認められて
いる品種(18品種)のほとんどが、除草剤耐性であり、海外では専用の除草
剤とセットで販売されているようです。
専用の除草剤とセットにすることによって、大豆は枯れずにそれ以外の植物は
枯れることになり、除草剤散布の手間が減ることと植付けの間隔を密にできる
ことがメリットです。
植付けを密にすると、1本あたりの大豆収量は少なくても本数が増えるので、
単位面積当たりの収穫量(単収)が増えるようです。
遺伝子組み換え大豆栽培の世界的な傾向としては、大まかに言って、EUと
アジア諸国(日本・中国・インド)は、栽培をしていません。
それに比べて、北米・南米は、大豆の作付面積の90%くらいが、遺伝子組み
換えになっています。
日本への輸入については、「大豆(遺伝子組み換えではない)」という表示を
するためには、IPハンドリングという輸送方法で、遺伝子組み換え大豆が
混ざって来ないように、分別管理をしています。
アジアの国々は、昔から大豆に親しんでおり、大豆を色々な形で食べていたので
遺伝子組み換え大豆には、抵抗があるのだと思います。
また、ヨーロッパについては、大豆にはなんの愛着もないが、遺伝子組み換え
作物全体に対する農業問題と言うか、米国に対しての農業戦争の一面だと思い
ます。
中国は、一番の大豆輸入国ですが、あえて遺伝子組み換え作物(綿・パパイヤ
を除く)を国内で作らせないのは、遺伝子組み換え作物を安く輸入して、
非遺伝子組み換え作物を高く輸出する戦略だと思います。
弊社は、国産大豆とカナダ大豆をここのところずっと原料として味噌を作って
おります。一概に国産大豆、カナダ大豆と言った大きな分け方の下に品種と
産地の区分があります。そこは、ある意味、企業秘密のところがあるので、
詳しくは申し上げることはできませんが、品種によって仕上がりに違いが出て
くることは、確かです。
産地についても、年ごとに気温変化や降雨量が違うので、サンプルと商社の
情報を合わせて、決めています。最近は、カナダでも遺伝子組み換え大豆が
増えてきました。
しかし、米国と違う点は、カナダ大豆と日本の味噌業界は、50年以上の交流が
あることです。米国に比べてカナダの農家の規模が小さい(それでも、日本の
農家の耕作面積とは比べ物にならないほど、広い)ので、付加価値をつける
必要があり、そこに目を付けた日本の味噌業界が、契約生産を頼んだようです。
もう20年以上も前ですが、カナダの農業試験場を味噌業界の人たちと見学に
行った際に、味噌用大豆の研究発表を聞きました。英語だったので、説明は
半分も分かりませんでしたが、グラフを見て、単語と数字でなんとなくわかった
つもりの記憶があります。
日本の大豆事情としては、国内生産量は、ここ10年くらいは、15~20万t
くらいです。米国やブラジルの1億tとは、比べ物にならない量です。
農水省のHPでは、「日本人が一年間に食べる大豆の消費量は平成29年で、
約357万トンですが、そのうち約243万トンはサラダ油などの精油(せいゆ)用に
使われ、残りのうち、約99万トンが、豆腐、納豆、みそ、しょうゆなどの食品用
として利用されています。」とあります。
この部分と遺伝子組み換え作物を合わせて行くと、日本では、出来上がった食品
から、大豆由来のDNAが検出される食品では、遺伝子組み換え作物を使って
いることを表示するという流れになっています。
しかし、醤油の多くは、脱脂大豆(DNA検出可能)を原料としています。
醤油は、醸造期間が長いので、大豆のDNAは、酵素等の働きで分解されてしまい
検出が出来ません。
また、食用油も、遺伝子の検出が出来ないので、表示の義務はありません。
ここからは、個人的な答えの見つかっていない疑問なのですが、遺伝子組み換え
作物全体についても言えることです。遺伝子を組み替えることによって、本来
ターゲットとしていた成果は達成できたが、それに伴って、発生した別の問題が
あるのではないかという不安があります。
それに対する答えは、DNAが検出出来るか出来ないかと言う答えでは無い
ような気がします。ただ、その不安を解消する筋の通った答えが他にあるかと
聞かれれば、沈黙するしかないのです。
たとえば、加工度合いが高い食品は、遺伝子組み換えの潜在的な問題が発生し
にくい。と言う考えも思いつきます。大豆で言うと、茹でただけの枝豆は
リスクが高く、固形物を無くした食用油や発酵過程を通した醤油は、リスクが
低い。と言う考え方もあります。
たぶん、その基準が、DNAが検出されるか、されないかだとすると、表示
問題が、遺伝子組み換え食品のリスクの評価とリンクします。
しかし、そもそも、遺伝子組み換え作物は、安全な食品として、認可されて
います。だから、加工度合いによって、リスクが変って来ることは、こちらの
方が論理のすり替えになります。
そもそもの話の主旨から、とんでもないところに行ってしまいました。
申し訳ありません。大豆について、考えて見ると色々なことが気になることに
自分でも初めて気づきました。今後も色々と気になったことを調べてみようと
思います。
★第96回 江戸の味は、甘じょっぱい味 ★
昨日発生した台風第10号は、近年にない勢力まで発達し、6日から7日に
かけて、奄美地方から西日本にかけて上陸するおそれがあります。
台風の予報にはまだ幅がありますが、広い範囲で最大級の警戒が必要です。
週末を迎える前に、台風への備えを終わらせるよう呼びかけられています。
今回は、『江戸の味は、甘じょっぱい味』をお届け致します。
江戸甘味噌に関して、資料等をあたっていると、江戸の町人の好む味が
「甘じょっぱい味」であり、その味を具現化した味噌が、江戸甘味噌となった
という思いが強くなっている。その味について掘り下げようと思う。
その味は、日本橋界隈で食べるすき焼きの砂糖と醤油とみりんの割り下の濃さ
であり、だし巻き卵が、砂糖と醤油とで色が着いている。
江戸時代から続く老舗と呼ばれる店の味が、江戸の味を象徴していると思う。
私の周りでは、「甘じょっぱい」と「甘辛い」が、混乱して使われている。
特に「甘辛い」は、二種類の受け取り方があると思っている。それは、
唐辛子辛いというか、スパイシーな辛さと甘味が一緒になったスイートチリや
ココナッツミルクのカレーの味を表現する場合と、いわゆる塩味で甘みを
持ったみたらし団子の砂糖醤油味である。
そもそも、この話は、「しょっぱい」と「辛い」の違いに還元されると思う。
「しょっぱい」は、濃い塩味であり、「辛い」は、塩辛いと唐辛子を中心と
するスパイシーな辛みの二種類の受け取り方がある。
「しょっぱい」は、多分「しおい」もしくは、「塩っぽい」から、シンプルに
「しょっぱい」なったのであろう。ただし、「しょっぱい」は、あまり品の良い
言葉には聞こえないので、「塩辛い」を使うようになり、「塩辛い」という
表現から、塩が取れて「辛い」と言う言葉が使われるようになったと考える。
そのため、「甘辛い」の耳触りの良さを、誤解を避けるために捨てて、
「甘じょっぱい味」としたと思う。
辛みは、五味(甘味、塩味、酸味、苦味、旨味)にも、入っていない味である。
「痛み」と同じジャンルに入る刺激だと言われている。その証拠に、舌だけで
なく、皮膚であれば、痛みを伴う刺激として、感じることが出来るからである。
さらに、辛味が、口に入れた際に五味の後からやって来ることも、味覚の後に
感じるものだからである。
関東の味の特徴は、塩辛い味だと言われる。それは、「しょっぱい」味であり、
「辛い」味ではない。
江戸の町は、室町時代に太田道灌の築いた江戸城が始まりとされるが、
徳川家康が江戸城に入ったときは、ただの寒村に過ぎなかった。
しかし、徳川家康の力が増大するとともに、江戸の町も栄えて人口も増えていった。
このことから考えると、江戸の町には徳川家康の入府以前は、ほぼ住民はおらず
人がいないので文化もない。と言った状態であり、全てを新たに作ることになる。
人が生活するために必要なものは、衣食住であり、衣と食については、他所
からの運搬輸送により賄っていただろう。しかし、住については、簡単に調達
できるものではなく、土木建築が必要となる。そのためには、多くの若い男手が
必要となり、近隣の地域を中心として様々な地方から移住して来た。
重労働をこなすには、エネルギーが必要である。米だけは、豊富にあった。
おかずとなる食糧は、土木建築労働者の数に対しては、供給が追い付かず、
その他の地域から運ばれたが、保存性を高めるためと、少量でたくさんの
米飯が食べられるために、塩分を高くした。
これが、関東の塩分の濃い味の由来とされる。さらに江戸の味は、その塩分の
濃い味に甘さを加えた「甘じょっぱい味」となっている。これは、調味料の
加える順番の「さしすせそ」よって、わかるように、甘味を塩味より先に入れる
必要があるので、最後の味付けに甘味を加えたのではなく、当初から意図して
甘味を加えていたことになる。
たぶん、この意図は、江戸の味を関東の味からの差別化を図ったためと思われる。
それは、その当時は、砂糖を始めとする甘味料は、調味料の中では高価な部類に
属して居た。甘味を多く使うことは、田舎に比べて都市は豊かであると自慢して
いる。それが、関東の味は、「しょっぱい味」だか、江戸の味は、それに高価な
甘味を加えた「甘じょっぱい味」だと主張したかったのではないか。
また、潮風の中で暮らす人々は、甘い味を求めるという説があり、ここから、
江戸甘味噌の味が決まったという説が、江戸甘味噌に関連して、「醸界風土記」
(矢野正次)に記述があるが、日本は、海に囲まれた国であり、そのすべての
漁村の人々が、甘い味を好んだとは考えにくいので、この説には、無理がある。
しかし、家康が江戸に移封された際には、摂津の国(大阪)の佃から、漁師の
一団が移住してきたことは、記録に残っている。
彼らは、その移住した地を故郷にちなんで「佃」と名付け、その地が佃煮の
発祥地とされている。佃煮の味は、保存性の向上の目的で水分活性を下げる
ために濃い味となっている。
この味が、江戸の味の起源になったという考えは、「醸界風土記」と合わせると、
「甘じょっぱい味」が、江戸の味になり、江戸甘味噌の味となったことにつな
がって来るように思う。
ここで、気になることは、「濃い味」である。逆の「薄味」なら、旨味を除く
残りの四味が少なくなり、旨味を強調した味となる。旨味まで少なくなって
しまうと、ただの水増しの味になる。「濃い味」とは、五味全てが多い味では
ない。五味の内の塩味と甘味が多いか、塩味か甘味のどちらかだけが多く、
残りの酸味、苦味は、無いか、あってもホドホドであり、旨味は、塩味と
甘味に打ち消される傾向にあるので、多い少ないは影響がないように思う。
したがって、至極当たり前の結論として「甘じょっぱい味」は、塩味と甘味が
双方多い味なので、「濃い味」となる。
江戸の味が、「甘じょっぱい味」になった理由が、関東の「しょっぱい味」に
対して差別化を図るためという理由と、佃煮の味が原点にあるという理由に
ついては、どちらも根拠はなく、この二つの仮説を合わせても、ストーリー性が
弱いと思う。特に当時の佃煮が現在の佃煮の味と同じ「甘じょっぱい味」で
あったかが、不明であるために、当時の佃煮の味から検証の必要がある。
以上のように、勝手な推測を書き連ねて来たが、江戸の味が「甘じょっぱい味」
であることは、間違いないことであり、その根拠をこれからも考え続けようと
思っている。
★第97回 江戸甘味噌は、なぜ、戦後すぐに復活できなかったのか ★
朝夕は次第に肌寒く感じるようになってまいりました。
7日午前9時現在、日本の南にある台風14号は、10月としては異例の
ノロノロ台風になる恐れがあるようで、台風の影響が長引く恐れがあり注意が
必要です。
また、急激な気温のアップダウンが激しく、関東周辺では8日にかけて装いが
一変し晩秋の寒さが予想されます。冬服の準備は今日のうちに済ませて下さい。
今回は、『江戸甘味噌は、なぜ、戦後すぐに復活できなかったのか』をお届け
致します。
江戸甘味噌の本を出版しようとする事業は、企画の段階からもう6年目に入ろう
としています。現状としては、はるか先にやっと到達点の光が微かに見えて来た
状態です。さらに、江戸甘味噌に関する全てのエピソードに合理的な説明がつい
ている訳ではありません。
※以下は、「江戸甘味噌の本」用の原稿として、書いたものを一部改稿している
ため、文章が堅くなっています。
たとえば、江戸甘味噌にとって、誕生以来、唯一で最大のピンチである太平洋
戦争の戦前から戦後にかけての経済統制による製造禁止とそこからの復活に
ついても、不明な点がある。
製造禁止については、法律で禁止されたため明確ではある。しかし、戦後に
統制が解除された時点で、すぐに江戸甘味噌が待ち望まれたように生産量が、
従前のように戻らなかったのか。それが、疑問である。
以下に詳しく説明と考察を述べたい。
昭和15年、江戸甘味噌が贅沢品に指定されて、製造禁止となった。それから
11年後の昭和26年、統制が解除されて製造ができるようになったが、その
時点では、限られた顧客に対してしか、需要はなくなっていた。
限られた顧客とは、江戸時代もしくは明治時代より江戸甘味噌を調理に使って
いた老舗飲食店(牛鍋、桜鍋、どじょう鍋、鯉こく等)である。
生まれた時から家庭の味として、江戸甘味噌の味噌汁を飲んでいた一般消費者
からの需要は、ほとんどなかったとされている。
その原因は、なんだったのだろうか。まず、することは、昭和15年に製造が
禁止された際にどの程度の量の江戸甘味噌が製造されていたかを調べることで
ある。
それにより、ある程度の量が生産されていたのか、それともじり貧になっていて
その時の生産中止で止めを刺されたのか。止めを刺されたのであれば、簡単には
復活できないが、ある程度の量を作っていて、それが生産中止になったのなら、
なぜ復活できなかったのかを改めて考えることになる。
手元にある「東京味噌組合八十年史」には、昭和7年から13年までの東京味噌
組合に所属する会社の仙台味噌と甘味噌の生産量が記されている。
なぜ、昭和13年までなのかは、昭和14年に味噌は、統制品目に加えられて、
指定価格が定められたからである。
さらに翌15年8月には、価格等統制令の適用を受けて、味噌の規格が全国で
統一されて、それには甘味噌の規格が無く、この時点で江戸甘味噌は、製造が
出来なくなったからであろう。
少し話は、横道にそれるが、東京味噌組合で取っていた統計の科目に注目して
みたい。江戸甘味噌と仙台味噌の二種類の分類しかない。これは、どちらも
赤味噌であり、一番の違いは塩分である。このことからも、昭和13年では、
現在圧倒的な生産量を誇る淡色系の味噌は、存在して居なかったことになる。
東京で流通している味噌は、全て赤味噌で塩分の違いで、2種類に分けていた
ことになる。
昭和13年の東京味噌組合全体の生産量を見ると、
甘味噌が6,076,116貫(22,785t)、仙台味噌が8,367,500貫(31,378t)と
なっている。
年間2万3千tの江戸甘味噌を毎日何人が食べていたのだろうか。江戸甘味噌を
常食としていたのは、何人であろうか。農林省の統計で1934年~38年(昭和9~
13年)の日本の年間一人当たりの味噌消費量は、10.6kgとなっている。
この数字で単純に甘味噌の生産量を割ってみると、217万人となる。仙台味噌の
生産量31,378tを一人当たりの消費量で割ると、296万人となり、双方の数字を
足しても、513万人にしかならない。
前述のとおり、東京市(現在の23区相当)の人口は、1940年(昭和15年)の
国勢調査では、6,778,804人となっている。実際の人口と味噌消費量からの
概算人口との差(約150万人分)が、自家製造量(大部分?)と味噌の他県
からの流入量(若干?)になると思われる。
なぜ、このように東京の味噌として、確固たる地位を占めていた江戸甘味噌が
製造中止の11年後に一気に復活ができなかった理由については、次回以降と
させていただきます。
★第98回 江戸甘味噌は、なぜ、戦後すぐに復活できなかったのか その2★
新型コロナウイルスの影響で映画界がさまざまな制約を受けているなか、
人気アニメ映画「劇場版『鬼滅の刃(やいば)』無限列車編」の累計興行収入が
8日までに約204億8300万円に達したと発表されました。
公開から24日間での200億円突破は、日本で上映された映画の中で最速だ
そうです。小説版やゲーム、食品、観光分野にも広がっている「鬼滅」人気、
国内歴代興収ランキングのベスト3入りも視野に入ってきました。
今回は、『江戸甘味噌は、なぜ、戦後すぐに復活できなかったのか その2』を
お届け致します。
前号では、東京市の人口に注目したが、地域別にもう少し細かく見てみる。
東京市は、昭和15年当時は、35区あり、旧市域と呼ばれる15区(麹町区、
神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、
小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区)と新市域の20区に
区別されることもあった。
旧市域は、徳川幕府の地域分けによると旧朱引内(幕府が地図に朱の線を引き
その内を江戸とした)であり、且つ墨引き(江戸においては町奉行管轄の地)の
土地であった。別の言い方をすれば、徳川幕府の決めた「江戸」の地であった。
以下に、昭和5、10、15年の国勢調査の数字を抜き出したが、15区合計については
15区の各区の人口の合計値を計算した。
昭和05年 東京府人口 5,408,678人 東京市人口 4,970,839人
15区合計 2,070,913人
昭和10年 東京府人口 6,369,919人 東京市人口 5,895,882人
15区合計 2,247,368人
昭和15年 東京府人口 7,354,971人 東京市人口 6,778,804人
15区合計 2,233,601人
東京府及び東京市の人口増加に対して、旧市域15区の人口は、大きく増えて
いない。これは、旧市域に比べて、新市域が鉄道や道路の整備などによって
都市化が進み、人口が激増したことが、理由として考えられる。
戦後の昭和22年に臨時国勢調査が行われた。(本来は昭和20年に行われるはずで
あったが「現下の緊迫する情勢に鑑み」中止となった。)昭和22年は、以前の
東京市35区が23区に再編された年でもある。
旧市域15区は、麹町区と神田区が千代田区、日本橋区と京橋区が中央区、
芝区と麻布区と赤坂区が港区、四谷区と牛込区と淀橋区(※)が新宿区、
小石川区と本郷区が文京区、下谷区と浅草区が台東区、本所区と向島区(※)が
墨田区、深川区と城東区(※)が江東区になり、8区となった。
(※印は、旧市域15区以外の区である。)
ちなみに、昭和15年当時の人口は、淀橋区が189,152人、向島区が206,402人、
城東区が192,400人で3区合計587,954人となる。これを15区の人口と合計すると
2,821,555人となる。
昭和22年の8区の合計人口は、1,159,022人となっており、昭和15年の半分以下の
41.1%となっている。
昭和22年 東京都人口 5,000,777人 区部人口 4,177,548人 8区合計1,159,022人
昭和15年人口対比 (67.9%) (61.6%) (41.1%)
となっており、旧市域の8区の人口減少が著しいことを表している。
続く昭和25年の国勢調査での市区町村別人口を見てみると、
昭和25年 東京都人口 6,277,500人 区部人口 5,385,071人 8区合計1,606,402人
昭和22年人口対比 (125.5%) (128.9%) (138.6%)
昭和22~25年の3年間で、これだけハイペースな人口回復がなされたことは、
驚きである。その原因の一つを説明するデータとして、昭和25年の国勢調査に
「常住地別人口の出生地別割合」という統計がある。
出生地 全国 東京都
総数 市部 郡部 総数 市部 郡部
総数 1000.0 1000.0 1000.0 1000.0 1000.0 1000.0
自市区町村 643.6 568.4 683.7 557.1 563.3 507.1
自府県 179.6 147.5 198.9 41.8 17.3 242.1
他府県 155.8 256.3 95.6 379.7 398.2 228.9
この統計でわかるように、東京都市部の人口の39.82%は、他府県の出身である
ことである。先ほどの8区合計の人口増については、東京市部の数字よりも高い
割合で、他府県出身者が移住して来たことが、考えられる。
なお、東京旧市域人口が、昭和15年に比べて昭和22年が著しく減少した原因は、
太平洋戦争の疎開による学童、老人等の移動と、空襲による多大な人的な被害
にある。
昭和15年8月に施行された価格等統制令には甘味噌が認められず、それにより
江戸甘味噌は製造を中止した。昭和26年に価格等統制令が解除されて、江戸甘
味噌の製造が可能となった。
しかし、上記のように消費地となっていた旧江戸市街の住民の半数近くが入れ替
わったことにより、消費者だけでなく、販売していた店舗も無くなったであろう。
また、昭和26年当時は、まだ食糧事情が悪く、味噌も作れば作っただけ売れた
時代であった。そのため、東京の味噌メーカーも、原料の確保と味噌の製造に
追われていた。
製造に手間が掛かり原価の高い江戸甘味噌も、最低限で昔から取引先の需要は
満たすことはした。しかし、当時の商品構成を成していた味噌が売れていた為
統制が解除になったからと言って、あえて江戸甘味噌を量産し、新たに一般
向けの販売経路に載せることまでは、しなかったと想像される。
その理由としては、まず、味噌の製造量は、麹の生産量をボトルネックとする
ことに由来する。味噌は、麹と大豆と塩を原料としている。そのうち、製造が
難しいのは、圧倒的に麹である。
しかも、麹室という設備も必要となって来る。加工に必要な時間も、大豆は
仕込み前日に浸漬を行い、当日蒸煮を行うが、麹は、仕込み日の二日前に米を
炊き、麹室での手入れを当日も含めて三日間行わなければならない。
さらに、大まかな計算をすると、1,000kgの米を麹にして、塩分12%の10歩麹の
味噌と5歩麹の味噌を仕込むとすると、10歩麹の味噌は、3,522kg出来る。
5歩麹だと、5,795kgと1.6倍の味噌が出来ることになる。
このように味噌メーカーとしても、麹歩合の低い味噌を造ることが、効率的に
大量の味噌を製造することとなるために、麹歩合の高い味噌は、製造を避けて
いたと考えられる。
結論としては、太平洋戦争による都市の破壊によって、江戸甘味噌を常食と
していた住民が激減したことと、戦後の食糧難によって、江戸甘味噌のような
手間がかかり、原価の高い味噌の需要と供給が無くなったことの2点が原因だ
と考えられる。
この事象については、上記を一旦の結論とさせていただくが、江戸甘味噌と
同様に、戦前は生活に浸透していたが、戦後顧みられなくなったと言う事象を
他にも探り、その理由と江戸甘味噌との共通点を考察することにより、新たな
説明ができるかもしれない。
そのような事象を捜すことを今後の課題として、文章を締めたい。
★第99回 和食について その1 ★
早いもので師走を迎えました。今年はコロナウィルスに振り回され、今まで
参加していた行事や観光地にも行けずに、静かな年末を迎えそうです。
インフルエンザの流行期にも入ります。
これまで以上に、マスク・手洗い・消毒などの感染症対策をして、健やかな
新年を迎えたいと思います。
今回は、『和食について その1』をお届け致します。
朝ドラが、東京オリンピックの話になって、そう言えば、世界遺産に和食が
登録されたことがあったなと、思い出しました。
平成25年に和食が、世界遺産に登録されたことは、大きな話題となりました。
急に思い出して、気になっていたことを調べましたが、登録当時に疑問に思って
いたことが、今になってもすっきりしないので、お話します。
まず、ご存知の方も多いと思いますが、世界遺産登録をされたのは、
「和食 日本人の伝統的な食文化」です。正確に言うと、無形文化遺産です。
その説明として、農林水産省の見解は、定義ではなく、特徴です。
1、多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
2、栄養バランスに優れた健康的な食生活
3、自然の美しさや季節の移ろいの表現
4、年中行事との密接な関わり
「和食」と「伝統的な食文化」についても、疑問があります。
さらに、農水省の示すところの特徴についても、引っかかるところがあります。
さらに、本来、世界遺産の登録は「危機に瀕している文化」を保護するのが
目的です。これについては、最後に私の偏見を申し上げます。
まず、和食とは、いかなる料理かと考えると、これは難しいです。
最初に考えたことは、洋食に対しての和食ではないかと思います。
料理の分類の上の分類ではないかと思います。和食と洋食と中華に分かれて、
洋食は、フレンチだのイタリアンだのそれぞれの国に分かれて、中華は、
四川とか広東とかに分かれて行くみたいな感じです。
食に関する無形文化遺産には、フランスの美食術、地中海料理(スペイン、
イタリア、ギリシャ、モロッコ)、メキシコの伝統料理、ケシケキの伝統
(トルコ)が、登録されています。
過去に世界遺産に登録された料理も、〇〇料理として、登録されています。
日本料理ではなく、和食というところが、食文化の食文化たるものなので
しょう。しかし、「フランスの美食術」とは、いかなる文化なのでしょう。
フランス料理でないところに、奥行きを感じます。
そこを見据えて、日本料理ではなく、和食としたのなら素晴らしいというか
あざといです。
また、食文化とは、何ぞや。と言うことになると、文化人類学を一から学ぶ
必要が出て来ます。迂闊に切り込みにくい言葉です。ですが私見で簡単に
言うと、料理とそれにまつわる習慣もしくは、儀式であると、思います。
そこで、和食の一番広い解釈は、箸を使って食べる料理は、和食と言う
考え方があります。箸を使うと言う習慣です。それだと中華料理と韓国料理も
含まれます。
また、代表的な昼ご飯のメニューのかつ丼、カレーライス、ラーメンが入ら
ないから、そこまで入れろ。という意見を言う人もいます。
かつ丼でも、料理内容を考えたら、カツとコロッケは、フランス料理です。
カレーは、スプーンで食べます。
ラーメンは、育ちは日本ですが、生まれが中国です。
そこで、農水省の言うところの特徴です。これを特徴とするなら、全ての料理に
当てはまると思います。
特に4.の特徴に対しては、線引きが微妙ですが、この特徴は、同じ餅を使う料理
でも、お雑煮は、正月の風物詩で和食だが、磯部巻きは、年中食べているので
和食の食材の餅、海苔、醤油を使っていても、和食ではないと言うことになります。
個人的には、それで区切ると、和食の範囲が、非常に狭くなると思います。
また、何をもって年中行事とするかです。
お正月のおせち料理、お雑煮は、例として挙げているので、当然良しとして
いただきましょう。
2月は、バレンタインデーという行事があります。そこで、使われるのは、
チョコレートです。チョコレートを贈るのは、日本特有の習慣とされています。
義理チョコという、どう考えても日本特有の年中行事です。
だとしたら、チョコレートは、和食なのでしょうか。
ここからでも、わかるように1.から3.と、4.は、全く違う次元の制限になります。
和食の範囲を広げるも狭めるも、4.の解釈次第です。
今月は、問題点を言い募るだけになりました。
次回は、着地に向けての話になります。
★第100回 和食について その2 ★
皆様、新年あけましておめでとうございます。
昨年は、ご愛読いただきましてありがとうございました。
今年も、メルマガにお付き合い下さい。
今回は、『和食について その2』をお届け致します。
前号で申し上げたように、和食という概念というか、定義は、決まっていない
と思います。なにより、農水省ですら、定義ではなく、特徴という言葉を使っ
ているところに、役所の言葉遣いの役所たるところが、あると思います。
いくらでも逃げられるようにしているところが、上手です。
逆に、この4つの特徴に当てはまらない料理を考えて、消去法で和食を定義する
方が、かえってわかりやすいかもしれません。
たとえば、チーズバーガーでシミュレーションをしてみると、
1.は、新鮮なひき肉?のハンバーグの他に新鮮な季節の野菜や発酵食品である
チーズを挟めば、クリアです。
2.も、牛肉と野菜と乳製品と炭水化物のバランスが絶妙です。
3.もトマトの赤、レタスの緑、チーズの黄色が目にも鮮やかです。
4.は、難しいですが、なにを年中行事とするかの定義も必要です。
ある家庭で、毎月29日に肉の日でチーズバーガーを食べることにしていたら、
年中行事でしょう。それとも、毎月だからダメなのでしょうか。だったら、
年中行事にするために、1月は、七草を挟むとか、3月は、桜の葉っぱの塩漬け
を使うとか、毎月バリエーションを決めて居たら、条件もクリア出来そうです。
こうやって、屁理屈を捏ねていると、和食の定義がわからなくなります。
1.~3.は、あえて言えば、普通の食事に当てはまる条件です。
4.の解釈によって和食の範囲が狭くなったり、広くなったりします。
法律ではなくて、状況に応じて調整する行政指導のようです。
ただ、登録から5年を経ていますが、和食の範囲についての議論は、私の知る
限りでは、ありません。話題になるように種火を点けて置いたが、続く燃料が
投入されなかったようです。それとも、登録することで燃料を使い果たしたの
でしょうか。
議論をするとなると、そもそも日本料理と和食は、同じものなのか別物なのか
から、意見が分かれて来ます。
さらに、気になることは、世界遺産という言葉です。英語のWorld Heritage
Siteの直訳ですが、特に気になるのは遺産という表現です。本来、世界遺産の
登録は「危機に瀕している文化」を保護するのが目的です。
歴史的な建造物ならば、これを守り続けるというイメージがあります。
逆に言うと、改変が不可能だと感じます。
確かに、もう誰も住んでいないお城や宮殿なら、保守点検だけをして置けば、
良いでしょう。(それだけでも、大変ですが。)しかし、人が住んでいる家なら
家族が増えたり減ったりするので、使い勝手を考えて、家具を入れ替えたり、
10年も経てば大幅リフォームをします。建築物ですら、そうですから、料理に
遺産という言葉を当てはめることは、これから、手足を縛って動けなくさせる
ことだと思います。
私は、大きく日本文化は、輸入されたものを換骨奪胎して、ちょっと違うものや
全く違うものに変えてしまうことが特徴だと思っています。現在、持て囃されて
いるマグロのトロだって、江戸時代は、猫マタギと言われて居たようです。
回転寿司だって、もう立ち寿司の廉価版ではなく独自の進化を遂げていることは
ご覧のとおりです。個人的な感想としては、酢飯の上にネタを載せた料理を寿司
とするところまで、寿司の概念を広げたのが、回転寿司だと思っています。
なにより、寿司ネタと言えば、メインはサーモンだと思う世代が、大半を占める
ようになったのも、回転寿司の影響でしょう。
江戸前寿司までは、伝統的な食文化で、回転寿司はそれに当たらないとするの
でしょうか。別の意味で、立ち寿司と回転寿司の違いについて考えることも、
面白いかもしれません。
あえてここまで触れずに置きましたが、一番影響があるのは、海外からの
観光客に対してだと思います。和食が滅びゆく食文化だと言って客寄せをする
ならば、ずっと閉店セールをやっているお店と同じで、好感は持てません。
しかし、登録されたのは、和食です。日本料理ではなく、和食です。和食は、
日本料理を含んで、料理だけではないさらに広い食文化を見せてくれます。
「フランスの美食術」も随分ずるいと言うか、賢いと思いましたが、「伝統的
な食文化」もはっきり示しているようで、ピントを合わさせない上手な押さえ
方です。
観光資源としては、各地の名所旧跡を幾つかまとめて、チマチマ登録にチャレ
ンジして一喜一憂するよりも、圧倒的に効率が良いと思います。
日本中の飲食に関わる人が自分なりの和食を提案することが、可能だからです。
ただ、町おこしには、隣町との差別化をどのように図るかが、知恵が必要にな
ります。それでも、ある意味、日本全国全ての飲食店が、観光地化することが
可能になります。
私は、和食が無形文化遺産に登録されることで、滅びゆく食文化のようなイメ
ージを与えることにならないかと、世界遺産登録に少しマイナスなイメージを
抱いています。さらに、和食が規格に嵌った料理になってしまい、マニュアル
や法規集で規定されることになると、もうこれは、完全に過去の遺物になって
しまうので、それは避けるべきだと思います。
しかし、登録から8年が経過しようとしていますが、全く和食に関する議論が
沸き起こりません。登録が認められたことによって、モチベーションが消えて
しまったのでしょうか。
世界無形文化遺産登録によって、和食とはなにか、和食と日本料理の違いは
なにか、料理の進化とはなにかを考えることや、考えを述べることは必要だと
思っております。もちろん、最終的にみんなの意見が一致することは、ないと
思います。
しかし、各々が意見を出して切磋琢磨することによって、見えてくるものも
あると思います。
現在、外食に携わる人たちにコロナ禍と呼ばれる大きな禍が降りかかって
います。外食店舗関係者だけでなく、原料の生産者から流通関係まで、大きな
ダメージを受けています。
しかし、必ずまた世界中の人々が行きかうようになります。そのときまでに、
こうして、和食についての蘊蓄をひけらかすことを含めて、話題とすることが
和食についての関心を高めることになると思います。
理論武装をそれぞれ関係者が行うことで、世界中から和食を求めて、人が
集まって来ると思います。
2023年が和食世界遺産登録10周年です。
ここに向けて、なにか仕掛けられないでしょうか。

