メールマガジン No141~150

目次

★第141回 甘い味噌の始まり その2 ★

急な雨や雷雨があった昨日までとは違い、今日は広く晴れて関東の内陸部では
30℃近くまで気温が上昇するところもあるそうです。来週後半には関東も梅雨
入りの可能性があるので、本格的な長雨シーズンの前に、大雨への対策を見直
しておこうと思います。

今回は、『甘い味噌の始まり その2』をお届け致します。

先月は、甘味噌について話が、脱線し過ぎて失礼しました。

今月は、歴史的に甘味噌の始まりについて、手持ちの資料から説明したいと
思います。
まず、ここで言う甘味噌の定義となりますが、現代の甘味噌の規格は、
麹歩合が15歩以上、塩分6%以下が標準だと思います。

ここまでハードルを上げると、この規格を満たす味噌は、明治時代以降に
なってしまうので、ざっくり、麹歩合10歩以上、塩分10%以下の切りの良い
辺りを目安に考えることとします。

味噌の種類として、先月にお話したように米味噌限定で考えたいと思います。

かつて味噌は、豆味噌のみでした。それが、米麹と一緒に仕込むことで、
米味噌となりました。米麹は、日本酒に使われていた米麹を利用したことと
思われます。
当初は、米麹を使うなんて贅沢品だと、思われたのでしょう。

一方、米麹を使って日本酒を醸造した歴史は古く、万葉集にも詠まれている
ようなので、奈良時代には存在した醸造方法だと思われます。
その米麹が、どのタイミングで味噌造りに使われるようになったかは、正確
にはわかりません。

ただ、奈良興福寺の塔頭の多聞院で代々書き継がれていた「多聞院日記」の
中に吉味噌(よきみそ)として、米みその配合が記録されたことが、日本
最古の米みその記録とされています。
それは、天文19年(1550年)のことです。

奈良興福寺と言えば、藤原氏の氏寺であり、そこで米味噌が食べられていた
かもしれませんが、米味噌がどこまで普及していたかは、わかりません。

同じ米麹を原料とする日本酒と味噌ですが、主たる微生物(麹菌、乳酸菌、
酵母)も変わりません。大きく違うところは、酵母の働きです。(以前は、
酒、もしくは、清酒と言っていたが、世界各地から様々な酒が入って来た
ことにより、「日本酒」と言う呼び名が、一般化されたようです。)

日本酒と味噌の酵母の働きの一番の違いは、アルコール発酵を主にするか
どうか、です。日本酒の発酵は、麹菌の酵素が米のデンプンを分解して、
ブドウ糖にして、ブドウ糖を酵母の力で、アルコールにする発酵です。

専門家は、「並行複発酵」呼びます。その意味は、デンプンを分解して
ブドウ糖にする段階とブドウ糖をアルコールにする段階の2段階が、一つの
タンクで行われるために、そのように言われます。
これ以上、詳しいことは知りませんので、検索及びAIに聞いてください。

味噌における酵母の働きは、一言で言うと味噌らしい風味を付けることです。
もちろん、酵母と言う大きな括りには含まれますが、味噌の酵母と日本酒の
酵母は、違います。

味噌の酵母の特徴は、まず、耐塩性があることとアルコール耐性が3%くらい
しかないことです。
密閉された容器で販売されている味噌(袋詰め、カップ入り)は、このアル
コール耐性の低さを利用して、酵母が再発酵しないように防涌剤(ぼうゆう
ざい)として、アルコール添加を行います。
日本酒の酵母と共通するところは、酸度の高い環境でも活動できることと、
嫌気状態でアルコール発酵をすることです。

乳酸菌については、その活動により、味噌も酒も同様に酸度が上がり、
非耐酸性の微生物を殺菌して、酸度の高いところでも増殖する酵母の活躍を
助ける働きをします。

今月も先月に増して、脱線してしまい、失礼しました。来月号は、歴史上に
おける甘味噌の始まりについてのお話をします。

★第142回 甘い味噌の始まり その3 ★

昨日は静岡で最高気温が今年全国で初めて40℃に達し、35℃以上の猛暑日と
なった地点数は今年最多となりました。今日11時30分までの時点で、特に
関東で猛暑日地点が多くなっています。東京電力では、融通電力の受電が
発表されました。体温超えの危険な暑さが続きます。暑さ指数(WBGT)の
確認等も行いながら、これまで以上に熱中症には厳重に警戒して下さい。

今回は、『甘い味噌の始まり その3』をお届け致します。

5月、6月と甘味噌の始まりと題して、本来なら、甘味噌について歴史的な
話をすべきところを単に甘味噌の説明およびその周辺の話となりました。
今月より、文献に基づく歴史的な話となります。

江戸時代初期(17世紀初期)と中期(17世紀後半から18世紀)の社会情勢を
考えると、享保の改革で新田開発が行われ、米の収穫量が増えたことは、
明確な事実とされる。

背景として、大坂夏の陣(1615年)以降、戦が無くなり、戦いにより領地を
増やすことができなくなった各藩で国力充実のための新田開発が行われてい
た。享保の改革では、各藩の新田開発を幕府が後追いしたとも言える。
以上のように、江戸初期に比べて中期では、米の生産量が明らかに増加して
いた。

それを裏付ける数字的なデータは、享保時代までないが、幕府の農民に対す
る規制をみると、江戸初期には、寛永20年(1643年)には田畑の売買を禁止
する「田畑永代売買禁止令」を、さらに延宝元年(1673年)農地の分割相続
を制限する「分地制限令」を出した。

そして農民支配に対する幕府の姿勢を総合したものが、慶安2年(1649年)、
3代将軍家光のときに出された慶安の御触書である。これは五人組の制度を
はじめ、農民の生活まで細かく規定したものだった。

このように農民を規制することにより、当然、年貢等の幕府の収入は増加
した。各藩や幕府の米収入が増加したと言うことは、流通する米の量が増え
たことになる。

流通する米が増加して、味噌に使える米も増えたことによって、甘味噌が
京都で発生し、その後に江戸でも、別の形の甘味噌が、普及した。

その社会的背景を押さえた上で、「甘い味噌」についての記述を捜すと、
貞享元年(1684年)に刊行された「庖厨備用和名本草」は、京都の医師・
向井元升が日常食と薬効について書いた本である。
全13巻の大著で、味噌については、第12巻の「味部」醸造類として、
「未醤」としての記述がある。

その文中で、その効能を述べているが、ここで取り上げたい箇所は、味噌の
色についての記述である。それは、「未醤ノ色微紅ナルモノ良シ赤色ナルモ
ノモットモ良シ」とある。意訳すると「少し赤い色の味噌は良い味噌で、
赤い味噌は最も良い味噌である。」と書かれている。

さらに以下のような味噌の歴史に大きく影響を与える文章もある。
「未醤 近年風味ヲ好ミ造レルミソハ、大豆一斗皮ヲサリ、水ニヒタシ蒸熟
シテ、上白ノ米麹一斗三升、アルヒハ一斗五升、アルヒハ二斗、塩三升入レ
アハセテ、ヨクウスヅキ泥ノ如クニシ、桶ニツメヲキ、三十日バカリニシテ
モチフ、其ノミソ味ヒキハメテ甘ク、其ノ色シロシ、是ヲ諸白未醤ト云フ、
又白未醤ト云フ、近年ヨリシテノ造法ナリ」

これを意訳すると、
「味噌 近年風味を好まれている味噌の作り方は、大豆1斗の皮を剥き、
水に漬けてから蒸して、上白の米麹を一斗三升か、一斗五升か、二斗に、
塩を三升入れて混ざ合わせ泥のようになるくらい臼で良く搗き、桶に詰めて
三十日位経ったら使う。その味噌の味は極めて甘く、その色は白い。これを
諸白味噌と呼び、又は白味噌と呼ぶ。近年になってからの作り方である。」

この一文が重要なのは、まず、味噌の配合(明らかに甘味噌の配合である)
が記述されていること、続いて、その配合の味噌は味が極めて甘いと白い
こと、そして、近年になって開発された作り方であることが記されている
3点によってである。

ご存知のように、京都を代表する味噌は、京都の白味噌(西京味噌)であり
白味噌と呼ばれ、色は白い味噌である。味噌の色による分類では、辛口味噌
の色の山吹色をしたものは、淡色味噌と区別されており、白味噌と呼ばれる
味噌は、京都の白味噌(現在では、関西白味噌と呼ばれている)だけである。

また、あえて付け加えると、当時の京都の人々は、普段は湯漬けや茶漬けを
口にしており、味噌汁を飲む習慣はなかったとされる。白甘味噌の味噌汁は
雑煮に代表されるように、特別な日(ハレの日)を選んで食べている。

以上のように、京都と言えば、白味噌のイメージが強い地域だが、1684年に
赤い味噌を最も良いとする文章が存在することは、当時の京都では、白甘
味噌ではなく、赤味噌を中心に食べていたということなのか、それとも、
京都の事情は抜きで、一般的に赤味噌が良いと言っているのかは、後者の
可能性は高いが、その当時の京都で、赤味噌も食べられていたことは、
間違いない。

また、「庖厨備用和名本草」の刊行が、貞享元年(1684年)なので、この
本に「近年よりの造法」とあることから、京都の白味噌(白甘味噌)の
歴史も、この頃に始まったと考えられる。

★第143回 甘い味噌の始まり その4 ★

昨日8日に発生した台風5号の影響により、週末の3連休から連休明けまで
北日本に大きく影響を及ぼす見込みのようです。台風から離れた西日本、
東日本でも、局地的な大雨や雷雨に注意が必要です。
9月以降の本格的な台風シーズンに入る前に、ハザードマップの確認や
大雨・災害時の備えを再確認しておきたいと思います。

今回は、『甘い味噌の始まり その4』をお届け致します。

先月号にて、京都の白味噌の起源について、独断に基づくお話をしましたが、
今月は、江戸甘味噌の起源についてお話します。

まず、庖厨備用和名本草(1684年)に時代的に続く文献(味噌の配合や製法
の記載されているもの)を探すと本朝食鑑(1697年)がある。

元禄10年(1697年)に刊行された「本朝食鑑」(人見必大)は日本の食材、
特に庶民の日常生活に関わる食物を中心に実地検証したもの選定、品名もそれ
までの漢名中心から和名中心にした本草書で、食物を12部に分けそれぞれの
性質、効用、害、料理法を詳しく解説している。

味噌についての項目も、もちろんあり、味噌と言う名称の解説、数種類の
味噌の製法、配合も記されている。
ここで特記すべきは、味噌の種類を上・中・下に分け、その基準が麹を多く
使う味噌を上としていることである。

さらに、上・中・下の味噌の配合も記されている。しかし、その配合は、
例えば、上が大豆1斗、米麹が1斗5~6升あるいは1斗7~8升、白塩
2合余となっている。上味噌、中味噌、白味噌と配合が記されているが、
この3種類の味噌全ての配合が、明らかに塩の単位が合ではなく升であり、
10倍の塩が必要となる。

このことから、考えられることは、この配合は、情報源から誤った情報が
入り、それを検証していなかったか、他の文献からの転記ミスと言うこと
になる。後者であるとしたら、元の文献があるはずだが、現状では見つかっ
ていない。

また、本朝食鑑には、白味噌についての説明が記されている。それには、
白味噌の製法、配合が書かれており「味は甚だ甘いが、美味ではない‥。」
等あり、「日が経てば、腐敗しやすい。使うのなら、古い味噌と合わせるの
が良い。」ともある。

「しかし、最近、皇室関係では、白味噌だけを用いている。」とある。
江戸で編纂された本朝食鑑に皇室関係の話として記載されることで、白味噌が
認知されていることがわかる。
庖厨備用和名本草(1684年)と本朝食鑑(1697年)の記載により、京都の
白味噌は、1684年には、存在して居たと本朝食鑑によって、裏付けがとれた。

さらに、塩の分量を補正した上味噌の配合を見ると、麹歩合が13.8歩、
塩分が5.3%となっている。別項にて、白味噌が説明されているために、
上味噌の色も赤い味噌だと考えられる。

この味噌について、江戸甘味噌として認められるための2つの条件である
「甘い味噌」「赤味噌」について検証を行うと、「甘い味噌」については、
麹歩合と塩分の数字があることで客観的に「甘い味噌」の条件を担保し、
「赤味噌」についても、別項に白味噌の記述があることにより、「赤味噌」で
あると考えられる。

したがって、本朝食鑑に記されている上味噌が、二つの条件を満たしており
江戸甘味噌の起源と考えられる。

享保2年(1717年)に新井白石の書いた語義解釈書「東雅」(20巻)が成立
した。その中に「今の如きも、俗に醤を呼びて甘味噌とも云い、また味噌と
いう言をもって加え呼ぶ醤の製も少なからぬ也」とあり、文献上、
「甘い味噌」は、あったが、「甘味噌」と表現されたのは、初めてである。

このことから考えられることは、「甘味噌」と称する味噌の種類が、「俗に」
言われるようになったことであり、甘味噌が名称とともに普及したということ
である。

従って、製法や配合が出揃い、「甘味噌」と言う名称も、普及したと見なさ
れる。
以上により、本朝食鑑の上味噌を江戸甘味噌の原型と考える。

★第144回 江戸甘味噌の名称が江戸時代の文献に出て来ない理由 ★

ようやく(?)夏休みが終わり、子供たちの登校が始まりました。横浜市立
中学校の昼食は、お弁当持参の生徒と、デリバリー給食を選択する生徒に
分かれています。お米の品薄状態もあり、お弁当の献立を考える以上に、
お米の調達に頭を悩ましています。そろそろ新米にお目にかかりたいです。

今回は、『江戸甘味噌の名称が江戸時代の文献に出て来ない理由』を
お届け致します。

先月号でも、甘味噌の始まりについて、数少ない資料に基づいて、独断を交
えて申し上げました。
今月は、江戸甘味噌の原点を捜して、文献を当たって最初にぶつかった問題
です。
それは、なぜ江戸時代の文献には、江戸味噌、および、江戸甘味噌の名称の
ついた味噌が見つからないのか。という問題です。

元禄時代に原型が出来上がった江戸甘味噌であるが、その後も江戸住民に
定着して江戸を代表する味噌として認められると共に、江戸の人口増に伴っ
て、生産量を増やして行った。

しかし、江戸時代においては、江戸甘味噌もしくは、江戸味噌の名称は、
文献上は、ほとんど登場しない。
江戸味噌の名称が唯一登場するのは、川柳で「江戸味噌といふは大名小路也」
(柳多留 文化2年1815年)とある。
この川柳の意味するところが、江戸甘味噌の名称が当時の味噌関係や料理関係
の文献に出て来ない理由の一つでは無いかと想像される。

まず、この句の解説だが、大名小路とは、現在の丸の内、大手町にあった実際
の道路名である。以下に引用する。

江戸期の丸の内・大手町一帯は、大名屋敷が建ち並ぶ武家の町であった。
この一帯は、江戸期以前には浅瀬の海(「日比谷入江」)が広がっていたが、
江戸期に入り、江戸の普請を命じられた有力大名たちは、ここを干拓し広大な
屋敷を構えた。

「大名小路」の通り名は明治期に入っても使用されていた。「大名小路」は、
現在の「丸の内ビルディング」「新丸の内ビルディング」の東側を南北に
延びる都道にあたり、現在も通りの愛称として使用されている。
「新丸の内ビルディング」前の案内標識にも、「大名小路」とある。
(三井住友トラスト不動産HPより)

大名小路は大藩の大名が、江戸城の目の前に大面積の屋敷を構えていたことが
わかる。そして、その領地は、全国各地に渡っている。江戸町人から見ると
大名小路に住む者は、身分は違えども参勤交代で来た地方出身者であり、
よそ者である。

江戸町民にとっての味噌は、一種類しかないのに、それを大名小路の住人たち
は、故郷の味噌と区別するために江戸味噌と呼んでいる。となる。

また、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(享和2年~文化11年、1802年~1814年)
でも、その七十六「京地の酒楼」で主人公に白味噌について「江戸人の口には
食ひがたし」と言わせていて、この時点で、江戸下町(主人公は神田八丁堀
出身)では赤味噌が明らかに主流となっていることがわかる。

私自身の話で恐縮だが、今は醤油の種類として、濃口、薄口、たまり、白と
様々な種類があることを知っているが、学生時代は醤油と言えば、関東の出身
のため濃口醤油しか知らなかった。もちろん呼び名も単に醤油であり、詳しく
呼べと言われれば、メーカー名でしか呼びようがなかった。

名称は、区別するものが増えるほど複雑になる。味噌の種類が一種類しか無け
れば、味噌と呼べば用が済む。大名小路の住人も、故郷に居たときは、ご当地
味噌の一種類しか知らずに江戸に来て、故郷の味噌とは全く違う味噌に出会っ
て、江戸味噌と呼んだのであろう。

★第145回 米不足について ★

先週末、地域の神社でお祭りが開催されていました。昼間はこども神輿があり
夜はカラオケ大会や、可愛らしいチアダンスの披露もありました。
屋台で売られている食べ物も値上げの嵐で、ざっと見た感じで2割程は高く
なっていたように感じました。
子供達のお財布事情も厳しそうで、2品買っただけで千円を超えていました。

今回は、『米不足について』をお届け致します。

8月中旬、スーパーの売り場からコメが無くなったと従業員から情報が入って
来ました。月末に行っている工場直売でも、毎月知り合いの米屋さんが出店
して、お米を売っています。

毎月最終土曜日の売出しでは、整理券を配り、10名ずつまとめての入場を
コロナ以降行っています。8月の売出しでは、10名まとめてではなく、
番号順に入場をお願いしました。お米は1家族10㎏までとしました。
それでも、15分ほどでお米は売り切れました。

なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。幾つか考えられることを申し
上げたいと思います。

一番根本的な原因は、需給関係です。需要に対して、供給が間に合わないから
物が足りなくなります。
コメは、基本的に年に一回しか収穫できない作物です。だから、収穫の秋には
その年に取れたコメの数量は、確定します(これが供給です)。

日本の人口(コメの必要量=需要)は減りつつありますが、変わりません。
供給が著しく減ったのならば、去年秋の段階で大騒ぎになっていたでしょう。
平成5年の平成の米騒動のときのように。

味噌業界では、去年の秋の段階でコメの収穫量が少なく値段が高いことは、
連絡が来ていました。その時の話では、味噌に使う加工用米が足りないが、
ご飯用のお米は充分ある。と聞いていました。

しかし、今年は、8月になって大騒ぎになりました。時期的に不足することは
あります。それは、去年の在庫が少なくなって、今年の収穫がまだ出来ない。
いわゆる端境期です。
また、この米不足は、全国的な傾向ではなく、都市部のみのことだとも言われ
ています。

ある地方の知人から、米が無いのなら送ると言われましたが、5㎏3,000円の
お米に1,000円の宅配料金が掛かるのは、申し訳ない気がしたので気持ちだけ
頂きました。

世間では、インバウンドの影響でコメが足りなくなったとも言われていますが
政府観光局の統計を見ても、毎月300万人程度です。
年間を通してでも4,000万人でしょう。その人達が平均3日滞在しても、
延べ1億2千万人で日本人の1日分です。365日で割ると0.3%で、10日居ても
1%です。だから、それほどの影響はないと思います。

私が思う有力な原因を以下に挙げたいと思います。
一番は、買い溜めでしょう。その原因として考えられる理由は、ここのところ
頻発している自然災害です。特に、南海トラフの臨時情報です。
これに関しては意味があったのかと識者が言っておりますが、備蓄をしないと
いけないと、数多くの人が思ったのは間違いないと思います。

特にお米については都市部でそのように思った消費者が多かったのでしょう。
話は違いますが、コメの備蓄に関しては、精米ではなく玄米で行うべきです。
(出来れば、5℃以下保管)
さらに小麦粉に比べても、加工のしやすさと言うか、煮れば主食になることは
備蓄に最適なことを再認識したと思います。

第二の理由として上げたいのは、小麦粉一族のパンやうどん・スパゲッティ
などの麺やピザが、値上がりしているので、お米との価格差が縮まったことも
あるようです。割安感とまで言いませんが、毎日、粉もの生活では飽きてしま
います。

逼迫して、コメの有難みに改めて気づいたと言ったところでしょうか。
もう10月には、新米も出回るので、コメ不足もほぼ解消されているでしょう。

★第146回 信州味噌について ★

パシフィコ横浜で先週末「ふるさとチョイス大感謝祭」というイベントが
開催されました。事前申込みをして参加を予定していたのですが、急用が
入り参加する事が出来ませんでした。翌朝のテレビ番組でこのイベントが
取り上げられていて、会場の様子や人気の返礼品が紹介されていました。
魅力的な品も多いので、年内にいくつか「ふるさと納税」を検討しようと
思います。

今回は、『信州味噌について』をお届け致します。

味噌は、様々な要素で分類されます。原料で米味噌、麦味噌、豆味噌、
調合味噌。塩分で辛口味噌、甘味噌、甘口味噌。色で淡色味噌、中間色味噌
赤味噌。漉し味噌と粒味噌。
以上の要素の組合せで、味噌は分類されます。

日本で一番多く生産されている味噌は、淡色辛口米味噌の漉し味噌です。
典型的な淡色辛口米味噌は、信州味噌です。ただ、世間一般に知られている
信州味噌と「信州味噌」と表示されている味噌は、違います。

「信州味噌」は、地域団体登録商標として、登録されているためにその規格を
満たしている味噌を「信州味噌」と呼称することになるからです。

その規格とは、「長野県味噌工業協同組合連合会加盟の味噌メーカーにより、
長野県内で製造されている味噌のことを『信州味噌』と言う。」となって
います。

以上のように、条件は2つです。味噌メーカーが所属している団体と味噌の
生産地です。この団体は長野県各地にある味噌組合(8つの組合)が連合会を
作り、全国味噌工業協同組合連合会に加盟しています。くどい言い方ですが、
製法や原料などは、関係ありません。

一般的に淡色辛口米味噌を信州味噌と言うようになった理由は、太平洋戦争後
の復興期に日本全国(特に東京周辺)を長野県産の味噌が席捲したからです。
それまでは、淡色の味噌が流通することはほとんどありませんでした。

味噌の色は、中間色もしくは、赤色でした。
もちろん、関西(京都)の白味噌は、ありましたが、荒っぽい言い方をすれば
関西はお粥文化で、味噌汁はそれほど飲食しなかったようです。

「みそ文化誌」の信州味噌の項には、「わずかに酸味を持つ赤系淡色辛口の
米麹みそだが、のちには山吹色の淡色が喜ばれるようになった。」とあり、
赤系淡色とは聞きなれない言葉ですが、中間色という解釈で間違いありません。

味噌が赤くなる理由は、糖分とタンパク質が反応してメイラード反応が起きる
ことと、糖分がカラメル反応する二つの反応が同時に起こっているためです。
この二つの反応に違いは、メイラード反応は温度に関係なく時間の経過でも
起きますが、カラメル反応は高温の時にのみ起きます。

したがって、色の薄い味噌を常温に置いておくと赤くなるのは、メイラード
反応です。

脱線ついでにお話すると、赤味噌用と淡色味噌用の大豆は、蒸煮が終わった
時点で違います。
その違いは、淡色味噌用は、大豆を一旦水煮して、その煮汁を流して、それ
から高圧蒸煮をするために、大豆の色が白くなっています。

一方、赤味噌用の大豆は、最初から高圧蒸煮をするので、大豆が赤っぽくなっ
ています。ついてですが、江戸甘味噌用の大豆は、3日間の留め釜をするので
大豆の糖分とタンパク質が2つの反応で、濃い茶褐色になっています。

さらに、一度水煮をした大豆で仕込んだ味噌は、大豆に含まれている水溶性の
糖分とタンパク質が流れ出ているために仕込んだ後も、メイラード反応が
緩やかに進み、色の着き方もゆっくりです。

また、信州味噌が戦争直後に日本全国に広まった理由の一つに「中田式速醸法」
による味噌の大量生産が挙げられます。
「中田式速醸法」をざっくり説明すると、仕込み後の味噌を加熱することに
よって、酵素反応や微生物の活動が促進されて、味噌が早く発酵する。という
ことになります。

とある資料には、いままで8カ月掛かっていた発酵熟成工程が20日ほどに
短縮された。と書かれています。

この他にも、信州味噌が日本全国に普及した理由は、幾つかあります。
それは、またの機会にお話します。

★第147回 信州味噌について その2 ★

11月から始めていた「コツコツ掃除」でしたが、先週末は実行する事が出来ず
今週末と来週末で何とか片づけたいと思っています。年越しに向けての準備が
色々と滞ってしまっている今年なのですが、幸先詣だけは何とか都合をつけて
行ってきたいと思います。

今回は、『信州味噌について その2』をお届け致します。

先月の続きです。長野県で味噌製造が盛んになった理由は、幾つかが挙げられ
ます。

まずは、歴史的な流れを申し上げると、明治時代までは、味噌だけでなく
多くの食物は、地一部の穀物を除いて(米、大豆)地産地消が行われていま
した。そのために、各県ごとの味噌の消費量と生産量は、ほぼ同じでした。

信州味噌が隆盛した理由の一つ目は、東京と鉄道が整備されたことです。
長野県は、北と南に二つに分かれます。北は、群馬県高崎市を経由して長野市
上田市を通り、日本海に至る上越線です。

南は、山梨県甲府を経由して、諏訪湖、松本市となり、飯田市、岐阜県を通り
名古屋へ行く中央線です。松本市と長野市の間には北アルプス山脈があり、
往来が難しくなっていました。
もちろん、東京との鉄道路線が敷かれたのは長野県だけではなく、東海道線は
もちろんのこと、東北線も同様です。

中央本線
中央本線は東京(新宿)から名古屋を結ぶ幹線ですが、途中で長野県の主要
都市(塩尻や辰野など)を通過します。
1909年(明治42年)辰野~塩尻間(11km)開業。
東京と塩尻(長野県内)が中央本線で直接結ばれる。

信越本線
信越本線は群馬県を経由し、長野県と新潟県を結ぶ路線です。
1885年(明治18年)高崎~横川間(26km)開業。群馬県までの整備。
1899年(明治32年)横川~軽井沢間(碓氷峠)開業。
群馬県と長野県が直接鉄道で結ばれる。

以上のように全国に鉄道が敷設されるに従って、信州味噌は大きく生産量を
増やしています。

ただ、鉄道網の発達に並行して生産量を増やすことができるのなら、関東周辺
の農業県も同じ条件になります。長野県だけでなく、茨城県、栃木県、群馬県
山梨県がそれに当たります。東京への距離などは、かえって近いくらいです。

現実は、長野県だけが味噌の唯一無二の大産地となりました。
以上の4県の現代の味噌生産量を合わせても、長野県の生産量の1/10にもなり
ません。
(群馬県に長野のメーカーの工場があり、その生産量25,000tを除いてです。)

さらに、以上の4県は、味噌原料の米と大豆の産地でもあります。
(茨城県以外は、海(食塩)がありませんが、それは長野県も同様です。)

長野県には他の県になかった別の理由があったはずです。

それは、生糸生産の関連施設を味噌製造に転用したためと聞いています。
もちろん、生糸の生産設備(蚕棚、紡績工場など)は、群馬県の富岡製糸場を
筆頭に北関東から甲信地方数多く存在して居ました。
さらに、そこに供給される生糸のための蚕棚など置くスペースや桑の葉を
在庫する倉庫などがあります。
そのような空間を生糸製造が下火になることによって、味噌製造に転用した
でしょう。

また、関東大震災と太平洋戦争の空襲による首都圏が焼け野原となったときに
長野県産味噌を運び込んで、販路を開拓したと言われています。

少し気になったことを申し上げると、長野県の特産品は、基本的には軽くて
価値のある品物という共通点があると思います。
それは、明治時代は、養蚕、紙、漆製品であり、近年は、時計に始まる精密
機械類です。

食品では、寒天や高野豆腐があり、これらは軽いことに加えて、長野県の雪が
少なく乾燥し、気温が下がる冬を利用した食品です。
食品の名産品である、味噌、信州そば、リンゴが、その流れに乗って居るかが
気になっています。

このお話を書き出したら、偶然、近現代の長野県の味噌の歴史を研究している
大学院生を中央味噌研究所から紹介されました。産地である長野県だけでなく
消費地の東京の事情も知りたい。とのことでしたので情報交換をします。
ただ、こちらに資料が無い(戦災や移転)のは、お詫びした上での話です。

今まで申し上げたお話では、なぜ長野県が戦後急激に味噌の生産量を伸ばした
のかは、説明不足なので、改めて妥当と思われる考察を書きたいと思っており
ます。もっと考えますので、暫くお時間を下さい。

★第148回 お米の価格について ★

皆様、新年あけましておめでとうございます。
昨年は、ご愛読いただきましてありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

今回は、『お米の価格について』をお届け致します。

2024年の夏からお米の値段が上がって、このコラムで早々に秋には落ち
着くと申し上げましたが、予想が真逆になり新米の価格が昨年の1.5倍に
なりました。
米不足は、解消されましたが、価格の方は下がることは無く、かえって
高くなる現象が起きました。予想が外れて、申し訳ありませんでした。

夏の不足感が、秋を迎えて新米によって満たされることなく、必要以上に
買い込むこととなったために、価格が上昇したと思われます。2023年に
比べて、この秋の収穫量は2023年の661.0万tに対して、2024年は679.2万t
となり、3%弱多くなっています。

2022年は、670.1万tだったので、より多くなっています。
また、輸入米はここ10年くらい変わらず、玄米が66万tに加えて精米等が
10万tの輸入です。

これだけ米の価格が高騰すると消費量が少なくなって、米が余るようなことに
なり、需給関係のバランスが取れなくなりそうです。
ただ、消費量が少なくなる原因は、代替の穀物との価格差によると思います。

たとえば、ご飯の代わりのパンや、うどん、スパゲッティを食べるとなると、
米の消費量が減ります。しかし、パンや麺類に切り替えるメリット(食費が
安くなる)が無ければ、米の消費量は、変わりません。

代替えとして一番に考えられる小麦および小麦粉の価格について調べました。
小麦の価格は、ウクライナ戦争によって大きく上昇しました。
2022年2月がロシアの侵攻で4月には、政府の売渡価格が54,000円/tから
72,530円/tに34%も上がっています。

小麦粉の小売価格は、253円/kgから269円/kgと6%におさえられていましたが
2024年10月には、334円/kgと2022年4月に対して32%の値上がりになります。

ものの値段を比較するには総務省統計局「小売物価統計調査」があり、それ
には、米5㎏袋と食パン1㎏の価格が出ています。米5㎏と食パン1㎏では比べ
にくいので1㎏にすると、2022年1月は、米1㎏401円、食パン430円となり、
2月のウクライナ戦争で米の値段は変わらずで、食パンが480円と値上がりし
ました。

それに対して、米は1月429円で5月まで横ばいで、6月464円、7月482円、
8月530円、9月608円、10月695円(データは10月まで)と1月と10月では、
266円(62%)の値上がりです。

こうしてみると、食パンを代表とする小麦粉関係は、ウクライナ戦争で
値上がりして、なだらかな価格上昇でしたが、米は2024年6,7月から激しく
値上がりしたことになります。

常温では、米はパンのように2~3日で劣化せず保存性が高いので、買い溜め
が出来る食材となります。
ただ、米と食パン1㎏の価格が逆転したのは、1993年と2012年だけでした。
1993年は冷害で平成米騒動の年で、2012年は東日本大震災の翌年でした。
2012年は放射能騒ぎと災害備蓄の動きで、米の価格が上昇しました。

また、インバウンドによって米の消費量が増えたという説を耳にしたことが
あると思いますが、4,000万人が渡航して来て1週間滞在しても、
0.6%程度の影響しかないので、それよりも日本人がコロナ明けで外出した
影響の方が大きいと思います。
経験上、家で食べるよりは外食の方が多く食べるためです。

2024年夏の米価上昇は、2022年以来の小麦粉価格上昇によって、パンや
うどんからお米に消費をシフトして、そこに南海トラフ騒動が起きて
備蓄意識が高まり、在庫が無くなったための価格上昇でした。

2024年秋(新米)からの上昇は、在庫は充分とは言えませんがあります
ので、需給関係がタイトになったことが理由ではありません。
これは諸経費が高騰したためにそれを上乗せした価格上昇です。
違う理由での価格が上昇です。

2024年12月時点では、今年の収穫が確定したので何もなければ米価格は
2025年夏まではこのままでしょう。
そこまでに何かあるとしたら、小麦の国際価格が上昇して、それに引き
ずられての上昇が考えられます。

2025年夏以降は、需給関係でコメの消費量が減ってしまって在庫が積み
上がり、価格が下がる可能性はあっても、400円台/㎏まで下がることは
無いと思います。
これで、2025年の収穫量が少ない予想でも出たとしたならば
全く下がらず、かえって上がるでしょう。

★第149回 仙台味噌と江戸甘味噌 ★

今季最強・最長寒波の襲来で、関東地方は10日頃まで厳しい寒さが続き、
内陸では水道管の凍結等にも注意が呼びかけられています。
今朝は、この冬初めて自家用車のフロントガラスが凍結していました。
11日頃からは、徐々に寒さが和らぎそうですが、外出の際はダウンコート、
マフラーや手袋など防寒対策を万全に、体を冷やさないようご注意下さい。

今回は、『仙台味噌と江戸甘味噌』をお届け致します。

江戸甘味噌や江戸味噌の名称が、江戸時代の文献に出て来ない理由について、
身近にある味噌の種類が一種類の場合は、単なる味噌と呼ぶだけで、地名や
色や原材料に絡めて分類をする必要がないために味噌とのみ呼ばれていたとの
見解を述べた。

さらに、京都の白味噌が江戸に知られるに際して、白味噌に対して赤味噌と
呼ばれるようになり、その赤味噌のランクが分かれることによって、上赤、
大赤、極赤などの名称が味噌の名称とされたという考察を申し上げた。

その後、その考えを補足する手段を思いついた。それは、仙台味噌の名称を
調べることによって、江戸甘味噌もしくは江戸味噌の名称が文献に出て来ない
ことの裏付けにすることである。

なぜ、仙台味噌を選んだかと言うと、江戸時代から太平洋戦争までで、江戸・
東京で消費量の多かった味噌の双璧だったとされるからである。以下に簡単に
仙台味噌の歴史を述べる。
補足ではあるが、現在最も生産量の多い信州味噌が、東京に普及したのは、
関東大震災以降の事である。

仙台味噌は、伊達政宗の時代に当時の朝鮮との戦で腐敗しなかったとして名を
上げたことが歴史への初登場であったが、その時点では、仙台と言う地名は
無く、その時の味噌は、あえて名付けるならば伊達氏の味噌となる。
その後、伊達政宗は、味噌醸造工場を仙台城(青葉城)内に建て「御塩噌蔵」
とした。

みそ文化誌によると、御塩噌蔵は、江戸に在住する仙台藩士3千名のために、
現在の大井町にあった仙台藩下屋敷にも建てられた。その味噌は、風味に優れ
ていたため、江戸市民でも入手を願う者が多かったため、二代藩主忠宗
(1600年生誕~1658年)の時代から一般にも払下げ、仙台味噌の名が大いに
広まったとされる。
とあるが、仙台藩の下屋敷が大井町に建てられたのは、二代藩主忠宗が亡くな
った年であるので、大井町の地で味噌が醸造されたのは、三代目以降のことで
あろうとする説もある。

それでも、江戸の初期から、仙台藩は江戸で味噌を醸造していたことは、
間違いないことである。
仙台味噌の名前は、現代でも辛口赤味噌の代表的な品種となっている。

江戸時代の文献には、仙台では明和元年1764年の大火で焼失したので再確認の
ため願出された味噌屋仲間掟留帳が記録として残っている。1764年に焼失した
ので、その原本はそれより以前に決められたことは、明らかである。

しかし、「仙台味噌」という名称は、その掟書には味噌屋、?油屋の文字は
あるが、記されていない。

手元の資料で仙台味噌の名称が出て来る文書は、文政8(1825)年に板行
された八百善の「江戸流行料理通大全」第二編「座付四季味噌吸物之部」には
仙台味噌を使った料理の記述がある。 

また、安政2(1855)年に出された「近江屋板江戸切絵図」の「品川白金目黒
辺之絵図」に「仙臺味噌屋敷」が記載されている。
しかし、「仙臺味噌屋敷」については、自明のことを申し上げれば、仙台藩の
味噌屋敷なのか、仙台味噌の屋敷なのかは、不明である。
今月は、ここまでとさせていただきます。

★第150回 仙台味噌と江戸甘味噌 その2 ★

本格的な花粉シーズンに入りました。先週まではそれ程症状もなく、本当に
昨年比440%なのか不思議に思っていました。今週に入ってからは徐々に
症状が出始め、今日に至っては飛散予報通りの辛い症状に悩まされています。
二重マスクをしたり、洋服の素材にも注意しながら対処していきたいと
思います。

今回は、『仙台味噌と江戸甘味噌 その2』をお届けいたします。

先月に引き続き、仙台味噌の名称について、申し上げます。

味噌屋仲間掟留帳(明和元年1764年)を論ずる前に、
「常州の真壁郡からきた真壁屋市兵衛がいた。豪商が軒を並べる国分町に住み
「古人筆頭」の格と「古木」の姓を与えられ、玄米百石の扶持を受けて藩の
みそ御用を勤めていたが、1626(寛永3)年に「仙台味噌」の看板を掲げて
仙台味噌の元祖となった。」と、みそ文化誌にある。

その引用元となる文章(醤油風土記 仙台 仙台味噌醤油(株)八代目佐々木
重兵衛)にも、仙台味噌の看板を掲げたとある。この点については、掘り
下げる。

これは、店舗を出したと言う意味なのか、仙台味噌と書かれた看板がその
時点で実在したのかが、気になる。これは、前者の意味ではないかと思う。

まず、引用基になる文のあとに繰り返すように「古木市兵衛が御用味噌屋の
招牌を掲げた」とあるので、看板を掲げた仙台味噌ではなく、仙台藩御用の
味噌屋としての招牌(看板)だと思う。

味噌屋仲間掟留帳に連名加判した者たちの住所も、某町の何某、もしくは、
某町味噌屋何某との署名となっており、味噌屋仲間掟留帳の全文を見ても、
仙台味噌はもちろんのこと仙台とも、記されていないことによる。
なにより、原材料の仕入れ先の指定から、配合に基づく原価計算の上申許可書
まで、書かれているこの留帳に仙台味噌の名称が出て来ないことは、仙台味噌
と呼ばれていなかった。のではないか。

また、江戸では、味噌屋と醤油屋が明確に分かれていた。販売に関しては、
両者を取り扱うことはあったと思うが、製造に関しては完全に分かれていた。
しかし、仙台では、味噌醤油仲間として、一体化していたようである。この
理由は推測でしかない。現代でも、味噌と醤油の双方を手掛けるメーカーは、
東北地方と九州地方に数多く存在する。(もちろん、酵母の関係上、別棟での
醸造としている。)

この相違については、江戸では、味噌は周辺で関東の地からの調達もしくは
自家醸造であり、醤油は江戸時代初期には上方からの下がりものであり、
江戸時代中期になって銚子や野田に専業メーカーが発展した歴史がある。
江戸の味噌屋は、江戸の街の人口増に対して味噌の増産を行っており、醤油を
手掛けようとは思わなかったであろう。

その理由は醸造期間の長さが大きく違うことに由来すると思われる。特に
短期間(甘味噌のため、1週間以内)で出荷できる味噌を作っていた味噌屋が
数カ月から1年以上発酵熟成に掛かる醤油を作ろうとは、思わなかったので
あろう。

さらに、発酵熟成に充てる蔵の面積も大きくなることが明らかであり、全く
異なる事業として捉えていたのであろう。
仙台味噌を代表とする多塩少糖の発酵熟成期間の半年以上1年程度の味噌を
製造していた味噌屋が同じような発酵熟成期間の醤油を製造しても、
資金繰りがおかしくなることは、なかったであろう。

もちろん、資金繰りだけで味噌と醤油の製造を分けた訳ではないとは思うが、
熟成期間の違いは大きいと思う。

さらに、味噌は、鎌倉、室町時代から調味料・保存食として、身近な食品で
あったが、醤油は、関東においては、江戸時代になって普及した調味料である
ことの違いが、両者の生産者を分けたと言えるだろう。

今回は、大きく横道に逸れました。次回は、改めて本筋に戻ります。

メルマガ登録はこちら
目次